まる子の華麗な冒険(改訂・拡張版)

気がついたとき、まる子はいなかった。
ほんの一瞬、目を離しただけだったのに。
たぶん一時間は経っていた。
時計を見ると午後五時を少し回ったところ。秋の日は短く、夕暮れがやけに早い。
胸の奥が冷たくなるのを感じた。

あわてて探しに出た。
いつもの散歩コースを早足で辿る。まる子が好きだった商店街の角、パン屋の前、公園のベンチのあたり。
でも、どこにもいない。
そのまま反対方向にも走った。
踏切を越えると、夕方の帰宅ラッシュで駅周辺は人波に飲まれている。サラリーマンたちが携帯を見ながら足早に通り過ぎる。この喧騒の中に、あの小さな足音が混じっているはずもない。

娘に電話をかけた。
「まる子がいない」
その一言で、彼女も自転車に飛び乗ってくれた。近所の親戚の姪も加わって、三人での必死の捜索が始まった。
呼びかけても返事はない。
代わりに、胸の奥で“諦めるな”という声がした。

日が沈みかけ、心のどこかで絶望がちらつく。
交番に電話をしても「今日は受付終了しました」との返答。
がっかりしたが、それでも、最後の望みにかけて警察署に電話を入れた。

「犬の迷子で保護の報告、ありませんか」

受話器の向こうで、少し間があった。
そして、救いのような言葉が返ってきた。

「一件ありますね。小型犬で、白っぽい毛並み。たぶん…」

それだ。間違いない。まる子だ。
場所は環八沿いの交番。登録証明書をもって迎えに来てくれとのこと。

そのとき、まさに奇跡のような偶然が起こった。
娘が自転車で環八にでると、パトカーの助手席に、警官の腕に抱かれたまる子を見つけたのだ。
助手席の窓越しに、まる子がちょこんと顔を見せていたという。
「まる子!」
娘は思わず笑いながら叫んだらしい。

交番では、若いお巡りさんが抱っこしてくれていた。
「この子、すごく大人しくて、ずっと笑ってるみたいなんだ」
そう言って、まる子の頭をやさしく撫でてくれた。
まる子は何かを悟ったような顔で、しっぽをひと振りした。

――数日後。いつもの散歩道。
近所のおばさんに呼び止められた。

「あら、この子、この子よ!あの迷子のワンちゃん!」

話を聞いてみると、その日、まる子は線路沿いをふらふら歩いていたらしい。
通りがかった若いイケメンの男性が気にかけてくれて、何度も抱っこしながら、おばさんと協力して動物病院へ連れて行ってくれたという。
マイクロチップを調べてもらったあと、交番に届けてくれたのだそうだ。

首輪もしていなかったから、一見すると野良犬にも見えたはず。
それでも、「この子、絶対飼い犬だ」と信じてくれたんだ。

考えるだけで、胸が熱くなる。

「世の中、捨てたもんじゃないわね」
おばさんが言った。
ほんとに、そう思う。

いまでも、まる子の“迷走コース”を一緒に散歩している。
途中でよく声をかけられる。

「良かったねぇ、まるちゃん。素敵な人たちに助けられて」

そう言われるたび、まる子はまるで照れたように尻尾を揺らす。

今では、首輪に住所と連絡先をしっかりつけている。
まる子の華麗な冒険は、きっともうしない方がいい。
でも、あの日、彼女が見た世界は、どんなに広くて、どんなに人の優しさに満ちていたんだろう。

ハラハラして、ちょっと泣けて、最後にはあたたかくなる。
そんな一日だった。

次はまる子目線・まる子視点で

あの日、私はただ、風の匂いを追いかけていただけなの。
ほんの少し、いつもより遠くまで行ってみたくなったの。
だって、空がきれいだったんだもの。

途中で声をかけてくれたのは、おばさんだった。
「どこの子なの? 一人で歩いちゃダメよ」
私は尻尾を振って答えたけれど、うまく伝わらなかったみたい。
すると、どこからか若い男の人が現れてね、
「この子、迷子じゃないですか」って言いながら、
ひょいっと私を抱っこしたの。

それから、白い建物に連れて行かれた。
「動物病院」ってところ。
そこでは、機械のピッて音がして、
先生が「この子、ちゃんとチップ入ってるよ」と言った。
私は、なんのことか分からなかったけど、
どうやら“私の名札”みたいなものらしい。

それが終わると、また抱っこされて、今度はお巡りさんのところへ。
車がいっぱい走る大通り――環八っていうんだって。
踏切も渡った。ガタンゴトンと電車が通り過ぎた。

そのたびに彼の腕の中で小さく震えたけれど、
「大丈夫、大丈夫」と頭を撫でてもらった。
その声は、魔法みたいに落ち着くんだ。

交番から警察署、次の交番についたころには、夕焼けが街を赤く染めていた。
お巡りさんが、「かわいいねぇ」と笑いながら抱っこしてくれた。
あの瞬間、私はちょっと誇らしかったの。
“ちゃんと見つけてもらえる子”なんだって。

そこへ――見覚えのある声がした。
「まる子ーっ!」
振り向くと、自転車に乗った家族がこっちに手を振っていた。
うれしくて、しっぽが勝手に暴れた。
あのときの風の匂いより、ずっと強い“帰る匂い”がした。

家に戻ると、みんなが笑ってた。
お母さんは涙を拭きながら、
「まる子、よく帰ってきたね」って言ってくれた。
私はただ、「ちょっと風に誘われただけよ」って思ってたけど、
人間はそれを“冒険”って呼ぶらしい。

次の日から、私は首輪をつけることになった。
住所と電話番号と名前がついている。
それをつけると、ちょっと大人になった気がする。

今でも、あの道を歩くたびに、おばさんが声をかけてくれる。
「まるちゃん、また冒険したの?」
私は笑って尻尾を振る。
もう冒険はしないけど――
あの日の風の匂いと、やさしい腕のぬくもりは、今でも忘れられない。

だって、あれが私の“華麗な冒険”だったんだもの。

登録証明書 (1)