全集第5巻読書会と体験交流を毎月開催中

「森田先生の人間観とは?」
「森田療法・理論の世界観とは?」
全集5巻を通して、森田先生の時代に立ち返り、日々の生活と森田療法の学びが交差するような、温かな時間になればと思っています。

大切にしたいのは、ただ「知る」ことだけではなく、自分のこころの事実にふれてみること、そして、それを言葉にしてみること
読書の中で心に残った一節、自分の生活でふと気づいたこと、今まさに感じていること――それぞれが率直に語り、じっくりと耳を傾ける時間といたします。

  • メンバーとの共通する感情に「ああ、そうなんだな」と気づくこと
    ●浮かんできた想いを、そのまま言葉にしてみること
    ● 生活の中の小さな出来事を、具体的に分かち合ってみること
    ● そして、何よりも「共感」と「受容」を大切に、お互いの声を受け止め合うこと

こうしたプロセスを通じて、森田療法が目指している“あるがまま”の姿勢や、“生きる力”の源に、あらためて触れたいと思います。

大事なのは集うことの豊かさです。
読むこと、語ること、聞くこと――そのどれもが、人と人とのあいだに静かな灯をともしてくれるのだと実感しています。

毎回、日々の生活と森田療法の学びが交差するような、温かな時間をつくっていければと思っています。

第9回形外会ー昭和6年1月18日(午後3時開会、参加者29名)

森田先生のお言葉

・ご本人に代わって、この事を紹介するのは、これが自分の悪いところを告白・発表するという意味もあって、早く治る一つの手段であります。もし自分でこれを発表する事ができれば、なおさらに早く治ります。これが恥ずかしいのは当然のこと、やむを得ない事と観念ができるようになれば、その震える事がすっかり治るのであります。

・心頭滅却とは、苦痛に対する想像すなわち精神交互作用を全く止めることで、すなわち苦痛に対する批判を辞めて、苦痛そのものになりきることである。

森田療法的な態度について

森田療法が教えてくれる態度は、何か特別な心の技術ではありません。
それはむしろ、「人間とはこういうものだ」という事実を、静かに引き受けて生きる姿勢です。

森田先生は、神経症の回復について、意外なほど率直なことを語っています。
自分の悪いところを人前で告白し、発表すること――それは恥ずかしく、できれば避けたい行為です。しかし先生は、それこそが「早く治る一つの手段」であると言いました。

恥ずかしさが消えたから発表できるのではありません。
恥ずかしさを抱えたまま、それでも発表する。
もしそれを自分の意志でできるなら、回復はさらに早まる。
この逆転した発想に、森田療法の核心があります。

震え、赤面し、不安になる。
それは「治っていない証拠」ではなく、人間として自然な反応です。
恥ずかしいのは当然であり、やむを得ないこと――そう観念できたとき、不思議なことに、あれほど意識していた震えは、いつの間にか姿を消していきます。
追い払おうとするほど居座り、放っておくと去っていく。心とは、そういう性質をもっているのです。

森田先生が語る「心頭滅却」も、我慢や根性論ではありません。
苦痛を感じないようにすることではなく、苦痛についてあれこれ考えるのをやめること。
「このままで大丈夫だろうか」「また悪くなるのではないか」
そうした想像や批判――森田先生の言葉で言えば「精神交互作用」を止めることです。

苦痛を分析せず、評価せず、排除しようともしない。
ただ、苦痛そのものになりきる。
痛いなら痛いまま、不安なら不安のまま、今ここにある感覚として受け取る。
すると、苦痛は「問題」ではなくなり、やがて自然に変化していきます。

森田療法的な態度とは、
「治そう」とするよりも、「生きよう」とする姿勢です。
不完全な自分を抱えたまま、今日なすべきことに手を伸ばす。
恥ずかしさも、不安も、震えも連れて生きる。

それは決して楽な道ではありませんが、
人間らしく、地に足のついた回復の道なのだと、森田先生は静かに教えてくれているようです。自助グループや当事者グループの場に身を置いていると、ふとした瞬間に気づくことがあります。
「ここでは、一人で踏ん張らなくてもいいのだ」と。
その安心感は、孤独を消してくれるというより、孤独に耐えながら生きていくための静かなエネルギーになります。

人は悩みの中にいると、どうしても自分との格闘に閉じこもりがちです。治そう、克服しよう、負けてはならない——そんな自分本位の闘いに疲れ果ててしまうことも少なくありません。けれど、同じように揺れながら生きる他者の存在に触れると、そこに共感が芽生え、少しずつ「他者を意識する心」が立ち上がってきます。悩みは相変わらずそこにあるのに、世界はわずかに広がるのです。

森田療法的な態度とは、「治そう」とするよりも、「生きよう」とする姿勢だといわれます。不完全な自分を何とか修理してから人生に戻るのではなく、不完全なまま、今日なすべきことにそっと手を伸ばしていく。恥ずかしさも、不安も、身体の震えも、置き去りにせず連れていく。その歩みは決して軽やかではありません。

けれど、その不器用な一歩一歩こそが、人間らしく、地に足のついた回復の道なのだと、森田先生は静かに語りかけているように思えます。そして、その道を一人ではなく、誰かと並んで歩める場所——それが、自助グループや当事者グループの、かけがえのない存在価値なのかもしれません。(代表幹事記)