全集第5巻読書会と体験交流を毎月開催中

「森田先生の人間観とは?」
「森田療法・理論の世界観とは?」
全集5巻を通して、森田先生の時代に立ち返り、日々の生活と森田療法の学びが交差するような、温かな時間になればと思っています。

大切にしたいのは、ただ「知る」ことだけではなく、自分のこころの事実にふれてみること、そして、それを言葉にしてみること
読書の中で心に残った一節、自分の生活でふと気づいたこと、今まさに感じていること――それぞれが率直に語り、じっくりと耳を傾ける時間といたします。

●メンバーとの共通する感情に「ああ、そうなんだな」と気づくこと
●浮かんできた想いを、そのまま言葉にしてみること
● 生活の中の小さな出来事を、具体的に分かち合ってみること
● そして、何よりも「共感」と「受容」を大切に、お互いの声を受け止め合うこと

こうしたプロセスを通じて、森田療法が目指している“あるがまま”の姿勢や、“生きる力”の源に、あらためて触れたいと思います。

大事なのは集うことの豊かさです。
読むこと、語ること、聞くこと――そのどれもが、人と人とのあいだに静かな灯をともしてくれるのだと実感しています。

毎回、日々の生活と森田療法の学びが交差するような、温かな時間をつくっていければと思っています。

第8回形外会ー昭和5年12月7日(午後3時開会、参加者30名)

森田先生のお言葉

・(佐藤氏)ありのままは、ひたすらに生きたいという事である、今日も明日も、今年も来年も、与えられた生命を生きつくしたい。苦悩を当然のことと観念してしまえば、そこに初めて安楽があります。

・皆さんのお話を聴いて、神経質は徹底的であるという事がわかる。この神経質の徹底的という事が、最も有難いところである。

・我々の完全欲というものは、どこまでも際限なしに、押し伸ばしていかなければならない。

・どうせはからう心は、我々の心の自然であるから、そのはからう心、そのままである時に、すなわちはからぬ心になるのである。手の震えを止めよう、止めようとする心でもよし、そのままに押し通せばよい。

森田は徹底的であれ

「ありのまま」とは、気楽になることでも、肩の力を抜くことでもない。
それは、ひたすらに生きたいという衝動そのものなのだ、と佐藤氏は語る。今日も明日も、今年も来年も、与えられた生命を生きつくしたいという、切実で、やや不器用なまでの願い。その願いがある限り、人は苦悩から逃れられない。だが、苦悩を異物として排除しようとするのをやめ、それを当然のこととして観念したとき、不思議なことに、そこに初めて静かな安らぎが生まれる。

形外会の集まりの中で語られる一人ひとりの体験に耳を傾けていると、神経質という性格の核心が、少しずつ輪郭を現してくる。それは「徹底的」であるということだ。中途半端では済まされない。気になることは、どこまでも気になる。考えるとなったら、最後まで考え抜く。この徹底性こそが、実は最も有難い資質なのだと気づかされる。苦しみの源だと思っていたものが、人生を深く生きるための力でもあるという逆説。

森田療法が語る「完全欲」とは、完成を夢見る心であり、よりよく生きたいと願う自然な欲求である。それは決して満たされきることがなく、際限なく先へ先へと伸びていく。だから疲れるし、苦しくもなる。しかし、この完全欲を縮めようとするのではなく、むしろ押し伸ばしていくところに、生の実感がある。

人はつい、はからう。どうにかならないか、少しでも楽にならないかと考える。その「どうせはからう心」こそが、我々の心の自然なのだ。はからう心を消そうとすればするほど、かえってそれに縛られてしまう。だから、そのままでいい。手の震えを止めようとする心が起きるなら、それでもよい。止めよう、止めようとする心を抱えたまま、生活を押し通していく。するとある時、はからっていたはずの心が、結果として「はからわぬ心」へと変わっていることに気づく。

森田療法のいう「徹底的」とは、理想の境地に達することではない。逃げずに、生きることを最後まで引き受ける姿勢のことなのだろう。苦悩を連れたまま、それでも今日を生き、明日へ向かう。その営みの中にこそ、心の自然は静かに息づいている。

森田は逞しき生活者たれ

森田先生のいう「神経質は徹底的である」という言葉が、抽象的な理念ではなく、生活の手触りをもった事実として立ち上がってくるのを感じます。神経質であるということは、気にしやすい、迷いやすいという弱さであると同時に、物事をいい加減に済ませられないという徹底性を内に秘めている。その「徹底的」であることこそが、森田療法において最も有難い資質だと、あらためて気づかされます。

森田先生は、我々の中にある「完全欲」は際限がないと言いました。ここでいう完全欲とは、完璧主義の呪縛というよりも、「よりよく生きたい」「この生を十分に使い切りたい」という生命そのものの欲求です。それは途中で満足してよい性質のものではなく、押し伸ばし、押し伸ばしながら生きていくものだと言えるでしょう。凡事徹底、周知徹底、大悟徹底といった言葉に共通する「徹底」とは、特別な悟りや偉業を意味するのではなく、日々の当たり前の営みを、当たり前のままに最後までやり通す姿勢を指しているように思えます。

「どうせはからう心は、我々の心の自然である」。この一節は、森田療法の核心を静かに言い当てています。不安をなくそう、震えを止めよう、失敗しないようにしよう――そうはからう心そのものを排除しようとすると、かえって苦しみは強まります。しかし、そのはからう心を「あってもよいもの」として引き受け、そのまま行動を押し通していくとき、不思議とそれは「はからわぬ心」に転じていく。手の震えを止めようとする心があってもよい、そのまま字を書く、そのまま人前に立つ。その徹底性が、心を操作するのではなく、生活を前に進めていく力になります。

中途半端でないこと、一つのことに心を打ち込むこと――これらは、気合や根性論ではありません。森田療法的に言えば、「今、目の前にある現実の用事に、感情の有無を問わず手を出す」という態度です。気が乗らなくても、迷いがあっても、完璧でなくても、やるべきことをやる。そこに徹底があるとき、人は次第に自分の感情に振り回されなくなり、感情を連れたまま生きていけるようになります。

こうして見ると、「その人なりのたくましき生活者」とは、悩みのない人でも、強い人でもありません。悩みや不安、はからいの心を抱えながら、それでも凡事を徹底し、自分の完全欲を人生の現場で使い切ろうとする人の姿です。神経質であるがゆえに立ち止まり、神経質であるがゆえに踏み出す。その徹底的な生き方の中に、森田療法の静かな力と、生活者としての確かな足取りが宿っているのだと思います。(代表幹事記)