大田・下丸子土曜の皆さま (6/28田園調布せせらぎ館にて開催)
あの時間を一緒に過ごせたこと、心から感謝しています。

深刻さと真剣さのあいだで──森田的に「今を生き切る」ということ
「深刻な心の状態」と「真剣な心の状態」。
この二つの言葉は、よく似た響きを持ちながらも、その奥に流れる意味はまるで違う。森田療法にふれていると、そんな言葉の違いが、あるときふと、身にしみるように感じられてくる。
深刻な状態とは、心が自分自身の内側に沈み込み、行き場をなくした状態だ。人の目が気になって一歩も踏み出せなかったり、あるいは「こんな自分ではだめだ」と自己否定の泥沼にはまりこんでしまったりする。
一方、真剣な状態とは、自分の感情を抱えながらも、目の前の課題に向かって身を投じていく姿勢をいう。不安や恐れがあっても、それを押し殺すのではなく、そのまま連れて行くようにして、自分の足で歩いていく。
森田療法は、こうした心の動きにとても敏感である。とりわけ、「不安はあってよい」という言葉は、この療法の中でもとくに有名なもののひとつだ。大切なのは、不安をなくすことではなく、不安を抱いたまま、日々の営みに身を入れて生きていくこと。
だからこそ、「深刻」と「真剣」をどう生きるかが、森田的な生き方の核心になる。
では、この二つの状態――深刻さと真剣さ――を、両立させることはできるのだろうか。
森田正馬なら、きっとこう言うだろう。
「できる。いや、それこそが人間の生きるということだ」と。
森田療法は、心の苦しみを排除の対象とせず、それをそのままの形で抱えながらも、行動する道を示してくれる。「あるがまま」とは、痛みも不安も排除せず、それを含めて一緒に生きていくという姿勢だ。
つまり、深刻さを抱いたまま、真剣に生きること。
この矛盾したようなあり方を、生き抜こうとするところに、森田的な実存がある。そこには、「今を生き切る」という、ある種の覚悟にも似た姿勢が伴っている。
では、このような生き方は、頭で理解してから実践するものだろうか。それとも、実践していく中で、ふと身につくものなのだろうか。
森田療法においては、体験が先にある。
たとえば、不安神経症の人が「不安を消したい」と考えているとき、森田療法は「消す必要はない」と説く。そして、「そのままでよい」と受け入れながら、「やるべきことをやる」ことを勧める。つまり、理解よりも行動が先。思索よりも実践が先。
行動のなかで生まれた体験こそが、深い学びをもたらす。そしてその体験から、初めて意味のある言葉が生まれてくる。
森田が残した「恐怖突入」「あるがまま」「目的本位」などの言葉も、すべてが実践から生まれた知恵だ。だからこそ、言葉に普遍的な力が宿る。けれど、その言葉の本当の意味は、自分自身の行動や所作を通して、ようやく腹に落ちるものなのだ。
そして、こうした生き方は、「人と違っていてよい」という前提の上に成り立っている。
体験は、十人十色だ。それぞれの生活、それぞれの事情、それぞれのとらわれがある。だからこそ、「あなたの生き方」が、「あなたの症状」を通して、見えてくる。
「治る」とは、「違い」をなくすことではなく、「違いを生きる力」に変えていくことではないか。森田的な眼差しは、そう語りかけてくるように思う。
最後に一つ、こんな問いが浮かぶ。
誰かの生き方を真似ることに、意味はあるのか?
答えは、イエス、である。
初めはぎこちなくてもいい。他者の行動をなぞることは、あたかも赤ん坊が大人の言葉を真似るようなものだ。そのうち、自分なりの言葉が紡げるようになる。行動の型が、やがて心の型を整えてくれる。
だからこそ、真似ることは、自分の生き方を育てる第一歩となる。
私たちは、不安や迷いを抱えながら、それでも今日という日を生きていく。
深刻であってもいい。真剣であってもいい。その二つの間で揺れながら、今を生き切ること。それこそが、森田的な生き方の核心なのだろうと思う。
(以上) ー『生活の発見』8月号30-35”セイ・イング”のリメイクー