大田・下丸子土曜の皆さま (6/28田園調布せせらぎ館にて開催)

昨日は、お暑い中お越しいただきありがとうございました。
結果報告になりますが、参加者は男性7名・女性7名の14名でした。
現役女子大生2名(母親と同伴)の初々しさは、いつにない新鮮さを感じました。
女性懇談会も順調な滑り出しで、今後がますます楽しみです。
懇親会は久しぶりの若鳥焼鳥久に5名(森田先生もご同席)、マスターと女将さん元気でした。
当日は、素敵な女性たちとの温かな会話が心に残りました。
日々の想いや小さな本音がぽつりぽつりとこぼれ、いつの間にか笑顔と共感が輪になっていきました。
あの時間を一緒に過ごせたこと、心から感謝しています。
当日、交わされたことを以下の文章にまとめてみました。

深刻さと真剣さのあいだで──森田的に「今を生き切る」ということ

「深刻な心の状態」と「真剣な心の状態」。

この二つの言葉は、よく似た響きを持ちながらも、その奥に流れる意味はまるで違う。森田療法にふれていると、そんな言葉の違いが、あるときふと、身にしみるように感じられてくる。

深刻な状態とは、心が自分自身の内側に沈み込み、行き場をなくした状態だ。人の目が気になって一歩も踏み出せなかったり、あるいは「こんな自分ではだめだ」と自己否定の泥沼にはまりこんでしまったりする。

一方、真剣な状態とは、自分の感情を抱えながらも、目の前の課題に向かって身を投じていく姿勢をいう。不安や恐れがあっても、それを押し殺すのではなく、そのまま連れて行くようにして、自分の足で歩いていく。

森田療法は、こうした心の動きにとても敏感である。とりわけ、「不安はあってよい」という言葉は、この療法の中でもとくに有名なもののひとつだ。大切なのは、不安をなくすことではなく、不安を抱いたまま、日々の営みに身を入れて生きていくこと。

だからこそ、「深刻」と「真剣」をどう生きるかが、森田的な生き方の核心になる。


では、この二つの状態――深刻さと真剣さ――を、両立させることはできるのだろうか。

森田正馬なら、きっとこう言うだろう。

「できる。いや、それこそが人間の生きるということだ」と。

森田療法は、心の苦しみを排除の対象とせず、それをそのままの形で抱えながらも、行動する道を示してくれる。「あるがまま」とは、痛みも不安も排除せず、それを含めて一緒に生きていくという姿勢だ。

つまり、深刻さを抱いたまま、真剣に生きること。

この矛盾したようなあり方を、生き抜こうとするところに、森田的な実存がある。そこには、「今を生き切る」という、ある種の覚悟にも似た姿勢が伴っている。


では、このような生き方は、頭で理解してから実践するものだろうか。それとも、実践していく中で、ふと身につくものなのだろうか。

森田療法においては、体験が先にある。

たとえば、不安神経症の人が「不安を消したい」と考えているとき、森田療法は「消す必要はない」と説く。そして、「そのままでよい」と受け入れながら、「やるべきことをやる」ことを勧める。つまり、理解よりも行動が先。思索よりも実践が先。

行動のなかで生まれた体験こそが、深い学びをもたらす。そしてその体験から、初めて意味のある言葉が生まれてくる。

森田が残した「恐怖突入」「あるがまま」「目的本位」などの言葉も、すべてが実践から生まれた知恵だ。だからこそ、言葉に普遍的な力が宿る。けれど、その言葉の本当の意味は、自分自身の行動や所作を通して、ようやく腹に落ちるものなのだ。


そして、こうした生き方は、「人と違っていてよい」という前提の上に成り立っている。

体験は、十人十色だ。それぞれの生活、それぞれの事情、それぞれのとらわれがある。だからこそ、「あなたの生き方」が、「あなたの症状」を通して、見えてくる。

「治る」とは、「違い」をなくすことではなく、「違いを生きる力」に変えていくことではないか。森田的な眼差しは、そう語りかけてくるように思う。


最後に一つ、こんな問いが浮かぶ。

誰かの生き方を真似ることに、意味はあるのか?

答えは、イエス、である。

初めはぎこちなくてもいい。他者の行動をなぞることは、あたかも赤ん坊が大人の言葉を真似るようなものだ。そのうち、自分なりの言葉が紡げるようになる。行動の型が、やがて心の型を整えてくれる。

だからこそ、真似ることは、自分の生き方を育てる第一歩となる。


私たちは、不安や迷いを抱えながら、それでも今日という日を生きていく。

深刻であってもいい。真剣であってもいい。その二つの間で揺れながら、今を生き切ること。それこそが、森田的な生き方の核心なのだろうと思う。

       (以上) ー『生活の発見』8月号30-35”セイ・イング”のリメイクー