神経症という名の駅で

ある雨の月曜日、僕は決まった時間に目を覚まし、決まった順番で歯を磨き、コーヒーを淹れ、そしてふと思ったんだ。「今日、僕は世界にちゃんと適応できるんだろうか」と。

それは突拍子もない考えじゃなかった。ここ数週間、いや正確に言えば数ヶ月、僕の内側には小さなざわめきがあって、それがまるで駅のベンチで眠れずに震えている旅人のように、居場所を求めてさまよっていた。

僕は32歳の翻訳家で、東京郊外のアパートにひとりで暮らしている。表面的にはそれなりに安定している仕事で、誰にでも優しくできる程度の余裕もある。だけど、それはあくまで「外側の話」だった。

内側では、ある種の虚しさが僕の肩にひっそりと乗っていた。いつからかは覚えていない。翻訳の仕事をこなし、メールを返し、夜はパスタを茹でて映画を観る。そんな日々のなかで、何かがうまく嚙み合っていない感覚だけが静かに残った。

背景にある適応不安

原因ははっきりしない。だけど、森田療法の本にあったように、「生活のどこかにある、思うようにならない現実」が、僕のどこかを圧迫していたのだと思う。

例えば、誰にも相談できなかったこと。自分の将来がぼんやりしていること。恋人と別れたあの夜に感じた、空の深さと孤独の広がり。そんな断片的な出来事が、知らぬ間に「適応不安」という形で僕の精神を締めつけていたのかもしれない。

ヒポコンドリー性基調という素質

さらに、僕にはその「不安」を特別な形で受け取る素質があったらしい。森田正馬はそれを「ヒポコンドリー性基調」と呼んだ。

要するに、感じすぎてしまう心だ。たとえば身体のちょっとした違和感が、病気の始まりではないかと不安になるように、僕は「うまくいっていない生活」そのものが、まるで病のように思えてくるのだ。

真面目に生きたい。ちゃんとした人間でいたい。だけど、現実はそう簡単じゃない。すると僕は、「どうしてうまくできないんだ」と自分を責め、そこにさらに不安が雪のように降り積もっていく。

そして、症状が現れる

ある朝、僕は駅のホームで電車を待っていた。心臓がバクバクしていた。息がうまく吸えない。目の前の空気がゆがんで見える。——そう、それが「症状のはじまり」だった。

もちろん、医者に行っても異常はなかった。だけど僕の中では、明確に「何かが壊れた」という実感があった。

それから僕は、「症状を何とかしなきゃ」という焦燥に取りつかれ、ますます不安の迷路に迷い込んでいく。それはまるで、出口のない駅構内をぐるぐると歩き回っているような感覚だった。

この物語は、僕の話でもあり、誰かの話でもある。神経症という駅には、きっとたくさんの人が立ち止まっている。そして、その多くは、ただ「真面目に、ちゃんと生きたい」と願っているだけなのだ。

神経症という名の駅で

症状が、僕になるまで ―

窓辺に置いた観葉植物の葉が、春の光をうっすらと反射している。
けれど、僕の中には未だに冬の名残のようなものが張りついていた。あの駅で感じた動悸、手の震え、呼吸の浅さ。それらは一度去ったかのように見えて、再び、日常のすき間から静かに這い寄ってくる。

僕は「また来た」と思った。
そして、同時に「どうにかしなくては」と思った。
それが、症状の罠だとも知らずに。

思想の矛盾 ―「こうあるべき」と「そうじゃない僕」

僕は、自分のことを「ちゃんとしている人間」でありたいと思っていた。
締切を守り、礼儀を忘れず、メールには即レスを返す。誰かが困っていれば手を差し伸べ、いつも「冷静」でいたい。

だけど現実の僕は、駅のホームで胸を抑え、知らない誰かの視線に怯え、予定していた仕事に手がつかず、気がつけば朝から布団の中で天井を見つめていた。

理想の自分と、実際の自分とのズレ。
そのギャップが僕の中で「ねじれ」を生んでいた。

僕は自分を「そうであるべきもの」に無理やり近づけようとして、
「そうでない自分」を許すことができなかった。

それは、見えないハーネスで自分の心を締め付けるような苦しさだった。

症状の発生と固着 ―「それがあるから、自分はダメなんだ」

そして、決定的な転換が起こる。
「この違和感をなんとかしないと、自分はもうまともに生活できない」と思い込むようになった。

いつしか、僕の生活の中心には「症状」が鎮座していた。

朝起きて、まず症状を探す。
仕事を始めても、うまくいかない原因を症状のせいにする。
人と会えば、「こんな状態で大丈夫だろうか」と考える。
不安という一点に、すべての光と影が集まってしまったのだ。

本来、不安は人間にとって自然な感情だ。
それがまるで“敵”のようになってしまったとき、僕の中で「神経症」という名の風景が完成した。

恐怖の回避と、実生活の後退

次第に、避ける対象は「駅」だけではなくなった。
人混み。会話。知らない人の視線。納期のある作業。
“症状が出そうな気配”がするもの全てから、僕は一歩ずつ身を引いていった。

最初は「無理をしないこと」と思っていた。
けれど、それはいつしか「何もしないこと」に変わっていった。

生活は静かだった。
でもその静けさの中には、どこかに閉じ込められたような息苦しさがあった。

やらなくてはならないこと、会わなければならない人、
作らなければならないものが、そこにあると知っていた。
でも、それが見えなくなっていった。
恐怖の厚い膜が、それらの輪郭を覆ってしまったからだ。

葛藤 ― よりよく生きたいという願い

それでも、心のどこかには、
「本当はこんなふうに生きたいわけじゃない」
という声が、確かにあった。

誰かに必要とされたかった。
自分の言葉や表現が、誰かの心に届く瞬間が欲しかった。
翻訳の仕事も、創作も、生活も——
本当は、全部、ちゃんとやっていきたかった。

けれど、そこに近づくたびに、症状が牙を剥いた。

前に進もうとするたびに、引き戻される。
まるで、心の中で一人、綱引きをしているようだった。

それでも、生きている

ある日、ふと、森田療法の言葉が心に留まった。
「あるがまま」——
不安があるなら、不安のままにしておけばいい。
症状を消そうとする努力こそが、症状を育ててしまうのだと。

その夜、僕はベランダでコーヒーを啜りながら、不安と並んで座っていた。
決して消えない感覚。
でも、それでも「今日は翻訳の途中まで進めたじゃないか」と、自分に言ってみる。

「恐怖があるなら、そのままにして、やるべきことをやる。」

え? そんな馬鹿な、と思った。
怖いから逃げているのに、そのままでいいとは?

でも、ふと気づいた。
今までの僕は、「症状を消してからじゃないと動けない」と思い込んでいた。

だけど実は、
「症状があっても、生きられるのではないか」
という道もあるのかもしれない。

たぶん、これが始まりだと思った。
治そうとするのではなく、「それがある人生をどう生きるか」を考える日々の。

そしてまた次の朝、僕は電車に揺られながら、少しだけ心が軽くなっているのを感じた。
不安はそこにあったけれど、それは僕を止めるものではなかった。

それでも僕は創る

不安は僕から離れていなかった。
けれど、創作もまた、僕の中にあった。

不安があるまま、筆を持つ。
違和感が残る体で、言葉を紡ぐ。

逃げるのではなく、
ただ「やるべきこと」を、今日という一日の中に置いておく。

そんなふうにして、僕は少しずつ、「生き直し」を始めていった。

あるがままの線路を歩く ―

春の終わりが近づくころ、僕はふたたび小さなアトリエに戻ってきた。
窓辺の観葉植物は、少し葉を伸ばしていた。僕が立ち止まっていたあいだにも、世界は少しずつ進んでいた。

症状は、まだ僕のそばにいた。
だけど、もう敵ではなくなっていた。

不安は「消すもの」ではない

森田療法の考えに出会ってから、不思議と力が抜けた。
「不安をなくすのではなく、不安のまま、生きていく」。
そんな逆説的な言葉が、妙に心に馴染んだ。

不安というのは、そもそも人間に備わっている大切な感情だった。
大切なことを大切にしたいと思うからこそ、不安になるのだ。

そう思ったとき、症状に振り回されていた日々が、少しずつ別のかたちに見えてきた。
僕はただ、「真剣に生きたかった」だけだったのかもしれない。

ほんとうの自分に気づく旅

森田療法の学びを重ねていくうちに、
僕は自分の中にある「適応不安」に気づくようになった。

――誰かにとって役に立ちたい。
――創作を通して、人とつながりたい。
――生きている意味を実感したい。

そんな素直な願いが、症状の奥に静かに隠れていた。

そして、驚くほど自然に、僕の中に「やりたい」という力があることにも気づき始めた。
不安に負けていたのではない。
不安の奥に、大事なものがあったのだ。

行動によって「できる」を体験する

だから僕は、また駅に行った。
手が震えながらも、次の翻訳案件の打ち合わせに向かった。
頭が真っ白になりそうになりながらも、新しい短編のアイデアを書き留めた。

うまくいったとは言えない。
でも、できなかったことを“やった”という事実だけが、僕を少しずつ変えていった。

不安があっても、生活はできる。
恐怖があっても、必要なことはできる。

その「実感」が、薬でもなく、誰かの助言でもなく、自分の足で築いた小さな証だった。

あるがままの自分と生きていく

不安、恐怖、悩み――
それらは今も、ときどき僕の前に立ちはだかる。

でも僕は、それらを追い払おうとはしない。
ただ「また来たな」と言って迎え入れ、「一緒に行くか」と肩を並べて歩く。

あるがままの自分。
完璧ではない、でもどこかで誠実な自分。

森田療法が目指すのは、そういう生き方なのだと今では思う。

最後に残ったもの

夜、原稿の文字を打ちながらふと手を止めて、
あの駅のホームの風景を思い出す。

当時は、そこが「終点」のように思えていた。
けれど今は違う。

そこは、始まりの駅だったのかもしれない。

そして今も、不安を抱えながら、僕は電車に乗っている。
少しだけ強くなった手で、行き先の違う切符を握りしめながら。