来週の日曜日にマラソン大会をひかえていて、無事に完走できるかどうか半信半疑でいます。

第9回しまだ大井川マラソン in リバティ 2017年10月29日(日)開催 

ひざの状態は完調とはいいがたく、日を改めると不快な痛みが走ることもあります。1年半以上のブランクは、旧知の友との再会時に「ずいぶんと太ったね」と言われる始末です。あれもこれも加齢の呪詛のたわごとだったと言い訳し、これからはそれらに背を向けて、心機一転、ひとつの決断をくだしてスタートすることにしました。

つまりわたしは、これからもマラソンランナーでいたいのです。かって「とらわれからはからい」行為の症状対処で始めたマラソンですが、森田療法を知った後も継続して今に残っているのは、気持ちのいい解放感と達成感があったからだと思います。

走れなかった期間に感じていたことは、走ることは私にとっての非日常の行為なんだということです。マラソンシューズに履き替えることは簡単なようで、強い意志を必要とします。そして転機が訪れました。機が熟したと言ってもいいでしょう。一歩、足を多摩川に向けて走り始めたその時から、非日常は日常にシフトし、わたしの生き方を支える大切な日常行為になりました。
わたしにとっての行い人はマラソンランナーです。

ここに村上春樹さんらしい奇妙なタイトルの書籍があります。ずいぶん昔によんだのですが、気になる箇所があったので引用いたします。現在は文庫本に収められていますので、簡単に手にすることが出来ます。

森田療法的な生き方とは、ひとつの形式を伴うものと思います。同時に「あるがままに、いまを生きる」とは、内面の葛藤や懊悩さらに不安(主に予期恐怖)を持ちながらの生き方、生きざまにつながります。これが体内の危険な毒素としたら、私たちにも、それに対抗できる自前の免疫システムが必要なことになるのではないでしょうか。

『走ることについて語るときに僕の語ること』村上春樹 文藝春秋社2007年

第5章 もしその頃の僕が、長いポニーテールを持っていたとしても

芸術行為とは、そもそもの成り立ちからして、不健全な、反社会的要素を内包したものなのだ。僕はそれを進んで認める。
息長く職業的に小説を書き続けていこうと望むなら、我々はそのような危険な(ある場合には命取りにもなる)体内の毒素に対抗できる、自前の免疫システムを作り上げなければならない。そうすることによって、我々はより強い毒素を正しく処理できるようになる。

そしてこの自己免疫システムを作り上げ、長期にわたって維持していくには、生半可でないエネルギーが必要になる。どこかにそのエネルギーを求めなくてはならない。
そして我々自身の基礎体力のほかに、そのエネルギーを求めるべき場所が存在するだろうか。
しかし僕自身について言わせていただければ、「基礎体力」の強化は、より大柄な創造に向かうためには欠くことのできないものごとのひとつだと考えているし、それはやるだけの価値のあることだ。

真に不健康なものを扱うためには、人はできるだけ健康でなければならない。それが僕のテーゼである。
 
若いときに優れた美しい、力のある作品を書いていた作家が、ある年齢を迎えて、疲弊の色を急激に濃くしていくことがある。「文学やつれ」という言葉がぴったりするような、独特のくたびれ方をする。

僕はできることなら、そういう「やつれ方」を避けたいと思う。僕の考える文学とは、もっと自発的で、求心的なものだ。そこには自然な前向きの活力がなくてはならない。
僕には「やつれている」ような暇はない。だからこそ「あんなのは芸術家でない」と言われても、僕は走り続ける。

第8章 死ぬまで18歳

身体が僕に許す限り、たとえよぼよぼになっても、たとえまわりの人々に「村上さん、そろそろ走るのはやめた方がいいんじゃないですか。もう歳だし」と忠告されても、おそらく僕はかまわず走り続けることだろう。
そう、誰がなんと言おうと、それが僕の生まれつきの性格(ネイチャー)なのだ。それが僕にとっての、そしてこの本にとっての、ひとつの結論になるのかもしれない。まるで雨天用運動靴のような地味な結論だ。

ある日当然、僕は小説を書き始めた。そしてある日突然、好きで道路を走り始めた。何によらずただ好きなことを、自分のやりたいようにやって生きてきた。

個人的で、頑固で、協調性を欠き、しばしば身勝手で、それでも自らを常に疑い、苦しいことがあってもそこになんとかおかしみをーあるいはおかしみに似たものをー見出そうとする、僕のネイチャーである。

第9章 少なくとも最後まで歩かなかった

もし僕の墓碑銘なんてものがあるとして、その文句を自分で選ぶことができるのなら、このように刻んでもらいたいと思う。

村上春樹
作家(そしてランナー)
1949-20**
少なくとも最後まで歩かなかった

村上さんは歩かず走ることにこだわります。たしかに走り切っての完走は嬉しいのですが、状況次第で、わたしは歩いても構わないと思っています。かって3回ほど参加した「岩手銀河100キロチャレンジマラソン」の大会規約は次のようになっていました。

競技者は走ること、歩くこと、場合によって這うこと以外の走法を認めない。