一枚の色紙(人のお世話をするように)
ツクツクボウシ
私は高校に入学してから、よく松本市内にある叔父の家に遊びに行った。叔父は長野県の松本市役所に勤めていたが、小さな借家住まいでその部屋の額縁には一枚の色紙が飾ってあった。
人のおせわにならぬよう
人のお世話をするよう
そしてむくいをもとめぬよう 新平
その当時はなるほどナアと思っていたが、今思えば森田理論も神経症が治るには、人のお世話をすることだと言うことを学んでからは、この後藤新平の書は、森田理論と同じことを言っているのではないかと気がついた。
「私は、最初から非常に苦しかったけれど、世話役を引き受けたということが、いま、どんなに自分の幸せにつながっているかということを痛感しています。」NPO法人生活の発見会顧問 大谷鈴代氏
『森田式精神健康法』長谷川洋三著 三笠書房166頁
後藤新平は明治から大正にかけて活躍した日本を代表する政治家の一人で、逓信、内務、外務の各大臣や、東京市長を歴任。関東大震災直後には、内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案し、昭和通り、靖国通り、明治通りなど現在の東京の幹線道路網の建設は、後藤に負うところが大きいと言われている。
なぜ叔父の家に後藤の色紙があったのか。叔父は市役所に勤めていた当時、戦時中小竹さん(仮名)の家族が東京から松本市内に疎開し不便を忍んでいたとき、親身になってお世話をして慣れない生活の手助けをしていたようで、その後小竹さんが東京に戻ってからも両人の絆は深く結ばれていて、私が東京の学校に入ったときも、叔父から小竹さん宅に行ってお手伝いをするようにと言われていた。
小竹さんは新聞記者からスタートし内閣情報局やフィリピンのある州の知事などをしたことがあり、この頃後藤新平とお付き合いがあり、上記の色紙を頂いたのではないかと想像した。そして小竹さんは疎開でお世話になった叔父に、この色紙を贈ったのではないかと思い当たったのである。
私は学生時代に毎月小竹さん宅にお邪魔して、庭の草取りや家の掃除を手伝って、夜は一家とともに食事を頂き、貧乏学生の身にはこのとき頂くビールの味がとても美味しかった。学生寮で生活をしていた私は、朝と夕食は寮で頂いたが、昼食はコッペパンと牛乳一本で過ごしていたので、小竹さんの家で頂く夕食はとても楽しみでもあった。
私は小竹さん宅に四年間通い続けたが、学校を卒業して別れるときに小竹さんから「君は平凡な人間だが平凡の累積は非凡に通ずる。君はその平凡を生かして生きて行きなさい。」と餞別の言葉をかけて頂いた。小竹さんの家には私の他にも何人かの学生や先輩が出入りしていたが、私の行動を見ていた小竹さんが、人より特別優れた能力を持たない私に対して、私の個性を見抜いて、将来の生き方を教えてくださったのかなあと思う。
会社に入って、赤面恐怖、会議恐怖などに悩みながらも、紆余曲折を経て今日までやってこられたのは、後藤新平や森田理論の教える「人のお世話をするように」という言葉に、導かれてきたのであろうかと、今思うのである。
私は傘寿(さんじゅ、80歳)を超えた今も、自分の心身の変化や好不調にばかり敏感になり、人のお世話をする心が乏しくなっている昨今ではあるが、この後藤新平の色紙(写し)を部屋に飾って朝夕眺めながら昔日を偲んでいる。
森田正馬全集第5巻からの抜粋引用
いやいやながらの夫婦でかえって恋愛結婚よりも充実した愛情のできる事がある
それは憎む心・嫌う心をそのままに反抗なしに憎み嫌っていれば、なんとはなしに自分の憎む心の卑劣を感じ、自分から憎まれる相手の心が可哀想になり、それからしだいしだいに、相手の長所・愛すべき点を、公正に観察する事ができるようになり、それがいつしか愛憐の情となって、放縦の感情から起こった恋愛の夫婦よりも、かえって充実した愛情が発育してくる事が多いのである。 (570頁下段)
高良武久著作集からの抜粋引用
人間性の事実について
神経質症の患者は一般に要求水準が高く、完全欲が強いので「かくあるべし」という理想像に重点を置き過ぎて「かくある」という事実に裏切られやすい。
森田の「思想の矛盾」というのはこのことを意味する。学生が勉学するとき、精神を統一して勉学の対象のみに注意を集中して、そのことに関する以外の観念は起こすべきでないという態度をとることは「かくあるべし」ということに執することである。
しかしかかる状態を常に持続させることは不可能であり、いわゆる雑念は必然的に起こるので、これが「かくある」人間心理の事実である。
すなわち「かくあるべし」の理想像が、「かくある」事実に罰せられて患者を悩ますのである。
気分の問題にしても同様で、人が常に明朗な気分の状態であるべきだと念ずれば、気分は内外の刺激によって明暗つねに動揺するという事実に裏切られて、そのためにいよいよ気分の失調をきたすのである。
『高良武久著作集Ⅱ』23-24頁