下丸子土曜集談会 全集5巻読書会
ー全集5巻読書会のこころみと特徴ー
下丸子土曜集談会では次の5つのポイントを大切にします。
●全集5巻読書を通して自分のこころの事実に近づいてみます。
●参加メンバーとの共通な感情を受けとめてみます。
●浮かんできた感情を否定しないで、そのままに発言してみます。
●近況での出来事を具体的に体験交流として発表してみます。
●共感と受容を基本に、聴くことと受けとめることを大切します。
下丸子土曜集談会の全集5巻読書会は自己紹介と体験交流もこの時間でします。
参加希望者にはメールアドレスに当月の全集5巻資料をおくりますので、事前読書をお願いいたします。
平成29年6月から少し体裁を変えてみます。参加者が同じページの同じ文章に目を通して発表していただきます。
当ホームページに当月の資料を掲載しますので、上記の5つのポイントを引用されて、ご覧になった感想等をお持ちください。
森田理論の基本的なテーマ(森田のことば)を中心に文献引用いたします。
リンク先の投稿ページに資料掲載していますのでコピーしてご持参ください。(下丸子土曜集談会代表幹事)
下丸子土曜集談会 全集5巻読書会資料 第47回形外会から
下丸子土曜集談会 全集5巻読書会資料 2017.12 -ハラハラドキドキ
下丸子土曜集談会 全集5巻読書会資料 2017.11 -とらわれ/はからい
下丸子土曜集談会 全集5巻読書会資料 2017.10 -治らずに治った/治すことを忘れる
下丸子土曜集談会 全集5巻読書会資料 2017.09 ー第一の感じ、純な心ー
下丸子土曜集談会 全集5巻読書会資料 2017.08 -自己中心的ー
下丸子土曜集談会 全集5巻読書会資料 2017.07 -感じから出発せよー
下丸子土曜集談会 全集5巻読書会資料 2017.06 -あるがままー
神経質の症状の治ると治らないのとの境は、苦痛をなくしよう、逃れようとする間は、十年でも二十年でも決して治らぬが、苦痛はこれをどうすることもできぬ、しかたがないと知り分け、往生した時は、その日から治るのである。すなわち「逃げようとする」か「踏みとどまる」かが、治ると治らぬとの境である。
(「森田正馬全集」第五巻 389頁下段2行~12行目まで)
森田正馬全集5巻より 森田のことば(形外会35回) ツクツクボウシ 2016年9月3日
下丸子集談会で、森田正馬全集5巻(第35回形外会記録)を学習した中から参加者の心に留まった個所を拾ってみました。
○ 煩悶とは、心の葛藤です。欲望と恐怖との拮抗闘争です。すなわち一方には思おうとする心と、他方には思うまいとする心との葛藤が起こる。これが煩悶である。強迫観念の原理も全くこれと同様である。
我々は苦しいことを苦しいと思い、残念なことを残念と思うのは、自然人情の事実であるから、腹が減った時に、食べたいと思と同様に、これをどうする事も出来ない。
これをそうでなくしようとするから、全く不可能のことで、あせればあせるほど、いたずらに奔命に疲れるばかりである。これが煩悶であり・強迫観念であるのである。
○ 禅では、仕事に熱中することを、遊戯(ゆうげ)三昧(ざんまい)といっている。三昧とは「なりきっている」ということであろうと思う。私はこれを「物そのものになる」という。
診察をすれば、なんとか適切に治したい。風呂焚きをすれば、ごみを整理して上手に焚き、一同に滞りなく風呂に入らせたいと思い、この原稿を書けば、なるたけ人に読みやすく、理解しやすくただちに有効になるようにと、一心不乱になる。これが三昧である。子供が砂いじりをしたり、積み木をしたりする心持と同様である。
○ 九大の下田博士は、私の療法を禅から出ているように書いてあるけれども、それは間違いである。強迫観念の本態を知ったのは、心理学的であって、宗教的ではない。その強迫観念の原理を発見したから、煩悩即解脱ということがわかった。
すなわち強迫観念の療法は、その精神の葛藤・煩悶を否定したり・回避したりするのではない。そのまま苦痛煩悶を忍受しなければならぬ。これを忍受しきった時に、そのまま煩悶・苦悩が消滅する。すなわち煩悩即菩提(ぼだい)であり・雑念即夢想・不安心即安心である。禅やそのほかの仏教で、「煩悩無尽誓願断」とか煩悩を断つとか言うけれども、私の療法では、決して断つのではない。煩悩そのままであるのです。
私の著書に、禅語が引用されているのは、みな強迫観念の治療に成功して後に、初めて禅の意味がわかるようになったものである。すなわち、禅と一致するからといっても、禅から出たのではない。私が神経質の研究から得た多くの心理的原理から、禅の語を便利に説明することができるようになったのである。
私は、森田では禅の言葉があちこちに出てくるので、森田療法と禅とはどういう関係にあるのか分かりませんでしたが、上記の説明でようやくこの疑問がわかり、良かったと思いました。
森田正馬全集5巻より 森田のことば ツクツクボウシ 2016年8月29日
8月の下丸子集談会では、森田正馬全集5巻(第36回形外会記録)を各自で読んできて、その感想を語り合いました。その中で何人かが心に留まったと指摘したところなどを拾ってみました。神経質症で悩んでいる人々へ、なんとか道を照らしてあげたいという、森田正馬の心が伝わってくる言葉だと思います。
〇 神経質の症状の治ると治らないとの境は、苦痛をなくしよう、逃れようとする間は、10年でも20年でも決して治らぬが、苦痛はこれをどうする事も出来ぬ、仕方がないと知り分け、往生した時は、その日から治るのである。即ち、「逃げようとする」か「踏みとどまる」かが、治ると治らぬとの境である。
○ 強迫観念は、ひとたび、逃げ道はない、治すことは出来ないという事を、よくよく知り分けさえすれば、その苦痛はただこれを忍受し恐怖を突破して、新生面を切り開くよりほかに方法はなくなり、初めてそこに悟りがあり、強迫観念が全治するのである。
○ 不道徳をすれば、将来罰を受ける。その恐怖がどうしてなくなったか。つまり泥棒をすれば、監獄に行く。食べ過ぎれば、下痢をする。ゴロ寝をすれば風邪をひく。事実唯真。どうにも仕方がない。ただ事実に服従する。しかたがないから往生する。というだけの事で、強迫観念が治る。
○ およそ強迫観念の心理は、我心の自然発動に対して、これに反抗しようとする精神葛藤である。人前で恥ずかしがってはいけない、ものを汚いと思ってはならぬ、死を恐れてはならぬ、腹立ち・盗心・悪心などを起こしてはならぬとか言って、しいてその心に反抗しようとする時に、おのおのそれに対する対人恐怖、不道徳恐怖とかいう強迫観念を起こすようになる。
私は事実唯真ということがとても大事だと思います。何か困ったことや、心配事があるといつも頭の中で、あれやこれや心配して、不安を膨らませる「癖」がついています。頭の中だけで考えていますから、不安や悩みはとめどなく大きくなっていきます。そんな時、ふと森田の「事実唯真」を思いだし、事実はどうなっている?と、自分に言い聞かせてストップをかけるようにしています。事実唯真はとても有難い言葉です。