下丸子土曜集談会 全集5巻読書会資料 2017.11-とらわれ、はからい

『森田正馬全集5巻(集団指導)』白揚社版(1989年版)より引用

ここの治療でも、この「とらわれ」がなくなれば全治するのである。とらわれを離れれば非常に便利で、生活が自由自在になります。ここの入院患者も、とらわれのある間は、仕事が治療のため、修養のため、仕事のための仕事であって、少しも実際に適切しない。盆栽に水をやれば、やたらにやって腐ってしまっても気がつかず、水をやることをやめれば、乾いて枯れても少しも知らないという風である。(240頁上段)

 

「はからわざる心」も同じく一つの心の態度であるが、これを教えられる人が、これを一つの事実として見ず、一つの手段として考える時に、「はからわざらんとする心」が、すなわち「はからう心」になって、「一波を以って一波を消さんと欲す、千波万波交々起こる」という風に、ますますこんがらかってくるようになる事を注意しなければならぬ。我々は何かにつけて常にはからっている。これが吾々の心の事実であり精神の自然現象である。この「はからう心」そのままであった時に、すなわち「はからわぬ心」であるという事をも考えなければならぬ。(26ページ下段)

不即不離の状態は、上述のように、一心に目を目的物にのみつけて、自分のはからい・小細工を捨てたところに起こることで、このはからいのことを、ちょっと前にお話した「とらわれ」というのである。つなわち「恥ずかしがってはいけない」とか、「先生(森田先生)に接近しなければならぬ」とかいうモットーとか、主義とかをとらわれといいます。この心が多ければ多いほど、不即不離ができなくなる。40日の入院療法の最も大事な条件は、このとらわれから離れることである。このとらわれから離れるには、どうすればよいかといえば、一方には、常に目的物から目を離さぬことであるが、一方には、自分の心がとらわれから離れられない時には、そのとらわれのままにとらわれていることも、同時にとらわれから離れるところの一つの方法であります。(244頁下段)

さきひど説明した「あるがまま」と同様で、どうせ「はからう心」は、我々の心の自然であるから、その「はからう心」そのままである時に、すなわち「はからわぬ心」になるのである。手の震えを止めよう、止めようとする心でもよし、そのままに押し通せばよい。ただペンの持ち方は、決して自分の心持のよいように、もちかえるのでなく、必ず正しい持ち方をして、字は震えても不格好でも、遅くとも読めるように、金釘流に書くという事を忘れさえしなければよい。自分で書痙をよくしよう、治そうということを実行しさえしなければよいのである。(87頁上段)