下丸子土曜集談会 全集5巻読書会資料 2017.10 ー治らずに治った/治すことを忘れる

『森田正馬全集第5巻(集団指導)』白揚社出版(1989年版)より引用しています。

神経質が、不眠なり強迫観念なりを治したい、苦しいことが楽になりたい。それは当然のことである。しかし一度これは病気でないから、治すべきはずのものでないという事を知れば、これを度外視して普通の人のように働く。そのうちに、仕事に心を奪われて、治そうとすることを忘れる。そして治るのである。(185頁上段)

不眠でも、赤面恐怖でも、なんでもこれを治そうと思う間は、どうしても治らぬ。治すことを断念し、治すことを忘れたら治る。これを私は「思想の矛盾」として説明してあることは、皆さんのご承知の通りです。例えば、岸辺の景色が(思想・観念という)水面に影を映すようなもので、(観念の)水がなければ、影という余計なものがなくて、ただ景色そのままの事実があるのみであります。観念があるために余計な邪魔になるのである。(318頁上段)

観念:経験した物事が積もり重なって、頭の中で固定的に考えられるようになったもの 『新明解国語辞典』

「自分は手が震える。思うように筆の動かないものである」と覚悟して、そのまま従順に、必要やむを得ないことには、しかたなしに筆を使うようにする。そうすると「気に入らぬ風もあろうに柳かな」のように、いつとはなしに自由自在に動くようになる。ちょっと考えると、本当に奇跡的に書痙のようなものが治るのである。(318頁下段)

「治らずに治った」という問題について、これは論理などを知らない素人の考えと同じように、矛盾の言葉である。それは「治らずに」とは、客観的の説明であって、「治った」とは主観的である。これは時を違えて、これを見る自分の立場と、見方の態度とを違えて見たことを記述したのであって、単に説明のための説明、理論のための理論に堕して、自分の当面の心境そのもの表現ではないのである。「あの家は高くて低い」というのも同様である。すなわち下から望めば高く、山の上から見下ろせば低いのである。折角の高楼の壮観も、これでは観照にも詩にもならない。(506頁下段)

観照:芸術的対象を直覚し、分析的でなく全体として、しかも具体的に主観を交えずに味わうこと 『広辞林』