下丸子土曜集談会 全集5巻読書会資料 2017.07 -感じから出発せよー 

『森田正馬全集第5巻(集団指導)』白揚社版(1989年)より引用しています。

心機一転の普通の場合は、心の内向的が外交的に一転する事かと思う。例えば自分が、今まで、足元ばかりを見、自分の勇気の有無ばかりを考えて、どうしても渡る事のできなかった丸木橋を、思い切り捨て身になった拍子に、前の方ばかりを見つめて、スラスラと渡り得た時のようなものである。

早川君は、まだ一転にならない。すべての事を理屈で考えるから、物を直感し、感じから出発して判断する事のいかに明瞭・正確であり、その力強いものであるかという事を、会得する時節が到来しないのである。

例えば方角は、どんな時に、正しくなるかというと、日の出る方を見て、理論では、その方が東という事がわかるけれども、東という生来の感じというものは、決して出てこない。私の場合は、神戸の海岸通り・品川の海岸・両国橋・本郷3丁目などへ来ると、それまで違っていた方角が、たちまちに一転して正しくなる。それは太陽が東から出るというような、個々の感じでなく、総合的の全体の感じでなくてはならない。

私の郷里の土佐では、南に海・北に山がある。それが私共の身に沁み込んだ全体の感じである。日本海へ出れば、海が北にある。その時は私は、それを南と感じるのである。決して理屈から割り出したものではない。

浦山君が心機一転したのは、ある時浦山君が、僕のいう事と妻のいう事と、反対であった事について、疑問と不満とをもっていたところを、僕の親戚の禅僧が来ていて、それはそのまま、おとなしく両方のいう事を聞いて実行すればよい、といわれた事からである。それは、どんな事件あったか、忘れたけれども、例えば家内は、盆栽に水をやるようにという。僕はやってはいけないという。

この「せよ」と「いけない」という事の正反対の言葉の末に、いたずらにとらわれて、反抗心を起こし、その実際を見る事ができないからである同じ盆栽でも、水をやる事と、やってはいけない事とは、絶えず変化して、その両方に、正しい意味がある、という事に気がつかない。これを従順に実行して見れば、なんでもなくわかる事である。(第22回形外会/230頁)

我々の日常生活は、実際において、まず第一に、時と場所とにおける「感じ」から心が発動し、種々の欲望が起こる時に、それに対して、理知により、理想に従いて、自分の行動を調整して行くのであって、すなわち第一が「感じ」で、次に理想が働くのである。これを反対に、理想を第一にして、それから感じを出そうとするから「思想の矛盾」となり、主義の色合いにかぶれて、純白無垢の行いができなくなるのである。

例えば時間がたてば腹がへり、ご馳走を見れば食べたくなる。これが「感じ」である。その時に、今日は下痢しているからとか、人前で行儀悪くすると、笑われとか考えるのが理知である。この「感じ」と理知との調節によって、人はその行いが、正されて、初めて理想にもかなうようになるのである。

これに反して、主義を立て、栄養をよくし、健康を進めなければならぬとか考える時は、いつも食べ過ぎて、空腹になるという事はなく、かえって腹を損なって、痩せるようになる。また若い女のように、「行儀よくしなければならぬ」とかいう主義を押し立てる時は、御馳走の時でも、主客がいたずらに、強いると遠慮するとで、喧嘩のようにガミガミ争わなければならぬようにもなるのである。

また努力主義を立てて、勉強しなければならぬ、読書に熱中しなければならぬという風に、理想を押し立てると、読書しても、雑念がそれからそれと起こり、興味を失い・理解ができず、ついには読書の事を思い出すも恐ろしいという、読書恐怖の強迫観念にかかる。

しかるにこのとき、ただ時と場所とに応じて、当然の事として、小説のようなものには、興味に駆られ、試験勉強の時には、苦痛を起こす。おのおのその感じは、そのまま感じとして、興味にも、耽溺しないように、苦痛もこれを努力するようにすればらそこに調節ができて、読書も上手になるのである。

(第37回形外会/406頁)(本文中色違いは引用者)